藤枝東店 「田邉」のOh!ススメ本

断片的なものの社会学
2019年02月のオススメ本
断片的なものの社会学
岸政彦/著
価格/1685円
 子どもの頃、団地に住んでみたかった。
そんなことを言うと、団地育ちの友人には不思議がられるのだけど。
 団地に住む友人との遊び場は、たいてい敷地内の公園だった。棟と棟の間の、滑り台しかないような小さな公園。そこにはその団地に住む子どもたちが集まって来て、学校では一緒に遊ばないような子達ともなんとなく一緒に遊んでいた。夕方になって、公園に面したベランダの一つから声がかかる。「晩御飯にするから帰ってらっしゃい」呼ばれた子は返事をしながらするりと皆の輪から離れていく。そのうちひとり、またひとりと、同じようにベランダから声がかかり、それぞれの家へと帰ってゆく。公園から子どもたちが帰ってゆく大きな建物を見上げると、縦横に並ぶ同じ形のベランダにそれぞれ違う模様のカーテンがかけられていて、灯りがついていたりいなかったり。そのときふと、これからこのひとつひとつのベランダの向こうではそれぞれ別の家族が、違ったメニューの晩御飯を食べたり違ったテレビ番組を見て笑ったりするのだな、ということに気づいて大層おどろいた。そして、それぞれの家族が縦横に並ぶ部屋の中で、別々の時間をすごしている様がとても素敵に思えて、自分もその一部になってみたいと思ったのだ。今となってはそれが集合住宅というもので、団地には団地の煩わしさもある、なんてことはもちろん分かっている。それでも、大人になった今でも団地のベランダの並びを見ると、その中のひとつひとつの家族の暮らしを思ってうっとりとする。例えるならば、ヴァレンタインのチョコレート。色々な味のチョコレートが、ぎっしりと綺麗に箱の中に納まっている様を見ているような。
  「断片的なものの社会学」を読んで思い浮かべたのはまさに、夕方に見上げた団地。
   著者は生活史を専門とする社会学者で、沖縄や被差別部落をフィールドに聞き取り調査を行っている。その調査の中で、学術的な分析や解釈から零れ落ちたエピソード、生活史の断片がこの書籍には収められている。それぞれの断片をつなぐ著者の眼差しは、とても優しい。時に自身の無力感にため息をつきながら、それでも微かな希望をすくうように書かれるエピソードはみな、あたたかな光に包まれているように見える。それは私が団地のベランダの向こうに見た、たくさんの名も知らない家族の団欒に似ているのではないか、などと思う。名もない人の、誰にも知られない日々が、実はとても美しい。そんな風に思えるようになる1冊である。

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